ガチャガチャ。


実は、ガチャガチャのファンです。

最近のヒットガチャガチャ、
「乗り合いバスの降車ボタン」

ちゃんと、
「つぎ、停まります。」
とアナウンス音声付きです。◕‿◕。

死海写本。


最近、我が家に加わった男の子のペキニーズです。

最近、少しずつ「死海写本」を読んでいます。
1946年に死海北西岸、「クムラン」地方で見付かり、
様々な解釈を生み、世界を騒がせてきている「最古の聖書」です。
もちろん、日本語訳の解説書ですが、やはり難しいです。

この写本を書いたと思われる人たちはエッセネ派、と呼ばれる宗教的集団を形成していたようですが、
このエッセネ派の記述に以下のような内容がありました。

エッセネ人(宗教的、集団的指導者をこのように呼んだようです)は、
鋭い洞察力を持って、結婚を、共同生活を破壊するおそれのある唯一の、あるいは最大のものとみなして、ことさらに強い節制力をもって、結婚を避けた。
エッセネ人の中には結婚している者は一人もいない。
女(妻)は自己愛が強く、異常に嫉妬深く、夫をおびき寄せて罠にかけ、たえず魔法をかけて夫の性格を自分の支配下におさめてしまうのに長けているからである。
おべっかや、舞台にいるようなその他の演技に精を出し、
夫の目と耳に罠をかけると、夫たちの最も大事な部分である理性を、欺くのである。
そのうえ、もし子供でもできようものなら、次第次第に図々しくなり、恥知らずにも共同生活をそこなうことをあれこれと、夫に無理にさせるのである。
妻の魅力のとりこになり、あるいは自然の本能によって子供のことに心を向けるようになると、
自分でも気付かぬうちに別人となり、自由人ではなくて奴隷になってしまうのである。

約2千年前に古代ヘブル文字で書かれた死海写本。
それを書いたとされるエッセネ派の指導者の、
なんとシビアでしかも、現代と変わらぬ事情を指摘していることか。

いやあ、やはり古代から女性は強いのですね。

大好き。


San-X社の人気キャラクター、「すみっこぐらし」の
「とかげとおかあさん」(実は恐竜の生き残り)が
大好きで大好きで。

大好きで。

大好きで。

大好きで。

いろいろ揃えて眺めています。にこにこ。

復縁。

綺麗な芙蓉の花。
今年の梅雨は雨が強くて、
花々も打たれてすぐ落ちてしまうようです。
7月の大雨による災害で被害を受けた方々に
心からお見舞い申し上げます。
この週末も雨とか。
どうぞ被害が出ませんように。

「お陰様で彼と復縁出来たんです!」
若々しく可愛らしいクライアントさん。
私はすぐにクライアントさん情報を忘れてしまうのですが、
婚カツしているけれど、
でも本当は元カレが忘れられないんです、
とおみえになったのが昨年末だそうで、
「あら、また再会してお付き合い出来ますよ、この時期くらいに。」
と話した、その時期に再会してまたお付き合いが始まったそうで。

「まあ、それは良かったです。」
「はい、今日はそのお礼と、
今後の事をみて欲しくて。」
はいはい、了解です。では、何を?
「えっと、復縁コンサルタントさんの話しだと、ですね。」
はい?復縁コンサルタント、という人がいるんですか?
「はい、復縁に関してメールでアドバイスしてくれるんですよ。」
いやー知りませんでした。
「で、復縁コンサルタントさんが言うには、
相手に結婚まで意識させるには、あなたが具体的な結婚観を持たないと具体化しないんです。心理作戦的にも、だそうです。
私の具体的な結婚観、ってなんでしょうか。」

心理学に基づいたアドバイスなんですか?
そうですか、でもそれはコンサルタントさんに聞かないと。
確かに、駆け引きが必要な恋はありますが、
結婚はどうかしら、これは「縁」も重要なので…
とりあえず、心理学的なアドバイスに関するアドバイス、は心理学的には出来ないと思いますので。
ご了承を頂きました。

私の考え。
復縁が叶った場合、
昔の相手がそのまま戻ってきた、と判断しない事が重要だと思います。
離れていた時間の経験、
それは相手を、自分を変えているはず。
また新たな気持ちで、決めつけず思い込まず、
いつも相手に敬う気持ちを抱くように出来れば
新しい時間を大切に共用していけると思います。

ミトコンドリア・イブ。


江の島、岩屋そばの「亀石」。
誰を乗せて、どこに泳ぎだしていくのかしら。

生物学の本を読んでいて、
「ミトコンドリア・イブ」という名前にぶつかった。
以下はWikipediaからの抜粋。

ミトコンドリア・イブ(Mitochondrial Eve)とは、人類の進化に関する学説において、現生人類の最も近い共通女系祖先(the matrilineal most recent common ancestor)に対し名付けられた愛称。約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである。

ミトコンドリアは女性からしか伝わらないため、男性は自分のミトコンドリアDNAを後世に残すことができない。また、女性は自分が産んだすべての子にミトコンドリアDNAを伝えるが、その子らがすべて男性だった場合、彼女のミトコンドリアDNAは孫に受け継がれずに途切れる。もし子に女性がいても、娘が産んだ孫に女性がいなければ、やはりその家系のミトコンドリアDNAは廃れる。つまりある個人のミトコンドリアDNAが子孫に伝わるためには、その間のすべての世代に少なくとも1人は女性が産まれなければならない。

ここで人類のある任意の世代の集団を考えよう。その時の構成員を、ミトコンドリアDNAについてそれぞれがバラバラの家系に属すると仮定する[3]。ここで偶然、ある家系の子孫が男性だけになったとすると、その家系のミトコンドリアDNAはやがて廃れる。逆に、女性が多数産まれた場合、より多くミトコンドリアDNAを残すこととなる。話を単純にするために、仮に人類の総人口が常に安定しているとすると、平均的には各男女から男女ひとりずつが生まれる(生き残り、次の世代を残す)ことになる。しかし実際に一組の夫婦が持つ子供の数は「男女ひとりずつ」を中心に、男性ばかり、女性ばかり、あるいは多数の子供を残す、子供を全く残さない、というようにばらつきを持って分布することになる。これを人類全体として確率論的に捉えるならば、ミトコンドリアDNAの系統は常に減っていくことになる。これを繰り返すと、いずれかの世代では、ミトコンドリアDNAの系統がある時代(ここでは、上に挙げた任意の世代)のひとつの系統に遡ることになる。この時点で、この系統以外の女性のミトコンドリアDNAにたどることは不可能となるが、それ以外の核DNAに関してはこの限りではない。

つまり、現在の人類の母親をどんどんたどっていくと、ある特定の型をもつ女性にたどりつく。同時代には違う型をもつ女性が他にもたくさんいたはずだが、家系図の母系だけをたどるのではなく、母系をたどりつつたまに父系をたどる、のような遡り方をすれば彼女達にたどりつくこともできる。すなわち、その時代のたった一人の女性から「過去から現在に至るまでの歴史上の全ての人類」が生まれたというわけではないのである。

…つまり、
ミトコンドリアDNAという
女性にのみ受け継がれていくDNA、がある。
これを解析していく事により、ヒトの資質までつまびらかになってしまうけど、家系などの証明にはなる。
これを読んで、
以前にもこのブログで書いた覚えはあるけれど、
「おんな紋」を思い出した。

女紋は女性が代々、伝えていく家紋で
嫁ぎ先がどんな家紋を抱えていても、
冠婚葬祭の時には、女紋を染め抜いた紋付きを着る。
私の女紋は「抱き茗荷」である。
(ちなみに、男性家紋は継承はしていくが、気に入らない文様であれば、自分が当代当主であるうちに家紋をすげ変える事は可能になる。例えば、鬼首に流水紋、がイヤで波に千鳥紋に変えたい、と思ったら変えてしまって構わない。)

女文様で、むかしはキツネ憑きの家系か
そうではないか、を判断していた。
そして、キツネ憑きではない家系である証拠の女紋を
むすめに、またそのむすめに、と受け継いでいく。
むすめが産まれなかった場合は、
そこで女紋は途絶える。ミトコンドリアDNAのように。

誰もミトコンドリアとか、DNA等を知らない時代に、
何かを予感して言い伝えを形成していく
ヒトの知恵はまた、DNAの伝える情報なのかしら。
とても興味深く、不思議に思う。

女性であれば誰でも、ミトコンドリア・イブになれる可能性があるという。
ひょっとしたら、貴女もミトコンドリア・イブかもしれない。
その場合、貴女のお母さん、お祖母さんもミトコンドリア・イブであり、
貴女はむすめを産み、そのむすめもまたむすめを産んでいき、ミトコンドリア・イブとなる。

この先、人類が何十万年、何百万年も生き延びていくならば、
その未来からみたら貴女はひょっとしたら、
ミトコンドリア・イブ、
と言われるのかもしれません。

こんな時代。


2015年にフクロウカフェに行った時の写真。
私の携帯は、時折、古い写真を発掘するという、
頼んではいないけれどなかなかオツな事をする。
もう5年も経ったなんて。
若いときは1年、1年が長く感じたのに。
今年も、もう半分過ぎてしまいました。

先日、小児科ドクターをリーディングして、
コロナウィルスに関する話もやはり出る。
「これからは唾液で陽性検査も出来るようになるので、
行政指定機関だけではなく、
一般クリニックも検査に参加する事になる予定で。」

……それは大変お疲れ様です。
一般市民にとっては、頼もしく安心出来ることですが、
ドクターはとても大変ですよね。

「感染のリスクはやはり、ありますからね。
今年はインフルエンザの検査はしない方向性なんですよ。
検査で飛沫が生じるので。
コロナウィルス対策で、インフルエンザ検査が出来ない。」

……そうなんですね。

「でも、ウィルスとは何か一種類が流行ってしまうと、
何故か他のウィルスが蔓延しないそうなんですよ。
ちなみに、今年はインフルエンザは激減でした。」

……なんともいえない感じですね。

「で、行政からの合図のラッパが鳴れば、
一般クリニックで陽性判定検査は実行していける、はず。」

……素晴らしい、いろいろ難儀な状態なのに。
尊い事でございます。

「なんですけどねー。ふう。
クリニックスタッフが戦々恐々で、
絶対にうちではやってるとは言わないで。
検査希望の患者さん来たら、本当に困ります。
先生が決めたのだから、検査は先生一人でやってください。
私たちは関わりません。やりません。
と、言うのですよ。」

それはなんとも手厳しい……
スタッフさん、持っている資格によってもまた
意見は様々だとは思いますが。

「権利、ではあると思いますが。
やりません。イヤです。
そう言えちゃう人、増えてきていますね。
うちは小児科だから、基本的に診察代を請求しません、
行政が負担するのですね。
そのせいか、親御さんたち、最強です。
私たちが医者を選ぶ時代なのよ。
こちらの特化したサービスは、何?
ここ、Wi-Fi入っている?
と、いきなり言われたりするんです。
お金、払わないと特権意識を持ってえらくなってしまうのかなあ。」

(・o・;) ……

何かどこかがズレている。
それは、私が歳を取ってきているから、
自分の中の価値観と
世間との時間軸のズレが生じてしまうのかしら。
権利、という概念が実は
わだかまり的な禍を呼んでいくから、なのかしら。
いや、わからない。

そこには多分、
足りる、という概念が欠落してきている。
でも実は足りない、のではなくて
満たされるべきという、渇望で支配されているからでは、
そう思う。
そして、求めるだけではなくて
満ちるとは、と問うてみるのも必要ではないかしら。
こんな時代だから。そうなってしまったのだから。