「因縁」とは。

先日、89才近い父と札幌伏見稲荷神社に行ってきました。
隠れパワースポットとして、実は地元では有名。
しかし、3月中旬では雪がまだ、かなり残っていて、境内は完璧なるアイスバーン。
余りにも危険で本宮に辿り着けずに引き返しました。
その時の写真。
あれ?私、顔が無いですか?
拡大すると

父と握り合っている手も変かな?

先日、あるクライアントさんにこう、言われました。
「鶴見さん、こういう仕事していると、
どうしても理屈、理由がつかない事、
仕方ないとするしか無い事って、それなりにあるでしょ?」

はい、あります。本当に、たくさん。
でも、それでも何かの理由を見付けていく、
それはタロットで読み込んでいくのは可能だと思っています、ある程度までは。

「鶴見さんは、その現象をどう思うの?
私は、それを「因縁」として考えるけれど。」

はい、いろいろなクライアントさんからも、
「因縁」という単語は良く出て来ます。
これって、何かの因縁なんでしょうか、とか。
しかしながら、私は全てのネガティブを
その言葉で一括りにしてしまうようで、
それに対しては余り納得は出来ないです。
だから、敢えて「因縁」という言葉は、私は使ってはいないです。

「そうですか、そういう考えなんだ。
でもね。因縁というものは確かにあるわけ。あるんですよ。
だから、それもやはり、考えてみてはどうかなと思いますよ。
特に、血縁上で出やすいわけだから、因縁というものは。」

うーんうーん(゚-゚)(-“-;)(゚_゚)
はい、確かに私は避けています。
運命、宿命、因縁。
この仕事をしていると良く聞く、
しかし私としては余り使いたくないこれらの言葉。
そろそろ、改めてそれを考えていく時期なのかしら。

少し、調べてみる。

運命 出典:Wikipedia
人の意思をこえて幸・不幸を与える力、元から定められている巡り合わせ

うーん(゚-゚)(-“-;)
その力、とは神仏?それとも?

因縁 出典:Wikipedia
一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅する。因縁によって生滅するという道理を因縁生滅の理といい、因縁によって生じることを因縁生、縁生、縁成、縁起などという。因縁によって生滅する一切の法はそのまま空なる存在であるという道理を因縁即空の理という。パーリ仏典では相応部因縁篇(Nidana-vagga)などで語られる。一切の現象は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される。

仏教では、修行による成仏を前提としており、
宿作因説 – 因や果を固定したり、創造神の力を因としたり、外在的・宿命的な力を因とする説
無因有果説 – 因なく最初から果があったとする宿命論的な主張
無因縁説 – 原因は有り得ないという説
に対してきびしい批判を行った(六師外道)。

龍樹は、『中論』観因縁品で、無自性空の立場からこれらの外部の説と、説一切有部の四縁六因説を批判し、四諦品で因縁によって生じる諸法は空であり、条件が変われば、変化すると説いている。

うーん。(-“-;)(゚_゚)(゚-゚)
わからない。読んでも読んでもわからない。
基本的に、私は仏教の「空」という概念が、その仏教上の定義に於いて非常に理解を拡げるのが難しく。
Buddhist、という括りは何処までを追随するのだろう、と思ったり。
そんなわけで、やはり「因縁」に関しては私は理解が深まらない。
ただ、理解が深まらなくても、それこそ、現象としての「因縁」を今までより、凝視し判断する必要があるのだろう、という事は「わかる」。

宿命
出典:デジタル大辞泉(小学館)
生まれる前の世から定まっている人間の運命。宿運。しゅくみょう。「海に生きる宿命にある」「つらい宿命を負う」

うーん(゚-゚)(-“-;)(゚_゚)
それならば、「前世」という概念がないはずの、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教には「宿命」はないのかしら。

思考のスパイラルに入るのは、出来れば避けたいので
これらの事はいつも、何処かで意識しながら
それこそ、リーディングしながら検証を続けていくのだと思います。
私のひとつの課題として。
しかし、それを追求、追随する気持ちはないけれど。
私は宗教家ではないから。

そのうちに、
「運命を吹き飛ばせ!」
みたいな内容のワークショップをしたいと思います。
シリーズにして。